アヴィニョン Avignon 見聞記–教皇庁の時代–

 

2015年9月、南フランス・プロヴァンス地方のエクサンプロヴァンス Aix-en-Provence(エクス Aix)にほぼ一ヶ月間滞在する機会を得た。所属する名古屋大学とエクス・マルセーユ大学の学術交流の一環であったが、予定した仕事をすませた9月末には、エクスからバスで一時間ほどで行くことができる同じプロヴァンス地方のアヴィニョン Avignon を訪れた。現在のアヴィニョン市は人口92,000人ほど、都市圏としては50万人を数える。

この町の名が広く知られているのは、言うまでもなく 1309年から1377年までこの地に教皇庁が置かれ、続く教会大分裂(大シスマ)の時期(1379年-1417年)にも一方の教皇庁が置かれていたことによっている。この時期をしのばせる教皇宮殿を中心とするこの町の歴史的建造物は「アヴィニョン歴史地区」として世界遺産にも登録されている(1995年登録、Wikipedia 日本語版の該当項目はこちら)。ここでは、この訪問とそれをきっかけとして調べ、考えたことを報告したい。

以下、教皇庁が置かれていた時代を中心としたこの町の歴史がテーマになるが、私は歴史の専門家ではなく、典拠は若干の図書と事典類であり、Wikipedia も参考にしている。一日本人旅行者のエッセーとしてお読みいただきたい。内容に関連するご教示をいただければ幸いである。なお、文章の末尾には参考文献を掲げた。(2016年2月2日)

〔ページ上部の写真〕アヴィニョンのパノラマ写真(ローヌ川の中州からの眺め、Wikipedia フランス語版 “Avignon” の項目より)

Google Map 日本語版のアヴィニョンの地図はこちら
Wikipedia 日本語版の「アヴィニョン」の項はこちら
(他に「アヴィニョン教皇庁」、「アヴィニョン捕囚」などの項目もある。
各項目の英語版、フランス語版の記事も参照されたい。)

I. 教皇宮殿まで

バスがアヴィニョンの町に近づくと、旧市街を取り囲む市壁が見えてくる。私はフランスをさほど旅行している方ではなく、フランス国内では市壁に囲まれた町は初めてである。はるか昔の留学時代に市壁を持つスペインのトレドを訪れたことはあるが、久方ぶりの市壁のある町に感動する。この市壁によって囲まれた旧市街の南側、市壁から道路を隔てたところにあるターミナルにバスが到着し、歩いて門(レピュブリック門)から内部に入る。市壁内はエクスに比べると近代化が大分進んだ感じだ(別稿の「エクス滞在記」参照)。この門から北の方向にまっすぐ町のメインストリートが伸びている。私は教皇宮殿 (Palais des papes) を目指してこの道を北へ向かった。

CIMG0587 (1024x768)アヴィニョンの旧市街を取り巻く市壁

CIMG0590 (1024x768)市壁 (左側) の内側は17, 18世紀以来再整備が進んだようだ。

CIMG0602 (1024x768)市壁の南側の門から北の教皇庁の方向に伸びるメインストリート

メインストリートはジャン・ジョレス通り(Cours Jean Jaurès) 、共和国通り (Rue de la République) と名前を変え、大時計広場 (Place de l’Horloge) に至る(以上、Google Map 日本語版参照)。ここまで来ると、手前の建物に隠れて全景は見えないものの、行く手右側に巨大な石造りの建造物がそびえているのがわかる。この巨大な建造物を右手にしてさらに進み、南側から宮殿広場 (Place du Palais) に入って広い空間に出ると、ファサードを広場に向けた教皇宮殿が要塞のようなその全景を現す。

CIMG0606 (768x1024)建物の間から教皇宮殿の尖塔が見えてくる。
写真中央の建物はすでに教皇宮殿である。

CIMG0609 (1024x768)教皇宮殿の正面

教皇宮殿は、建築された当時は群を抜く大きさであったとのことだ。もちろんローマのサンピエトロ大聖堂やバチカン宮殿はさらに大規模だが、これらはアヴィニョンの教皇宮殿より後代のものであることに注意しなくてはならない。宮殿の北半分は旧宮殿 Palais Vieux と呼ばれ、教皇庁がアヴィニョン地区に移って3代目の教皇ベネディクトゥス12世 (在位1334-1342) が建築し、南半分は新宮殿 Palais Neuf と呼ばれ、次の教皇クレメンス6世 (在位1342-1352) が建築したものである(完成は次のインノケンティウス6世 (在位1352-1366) の時代とされる)。現在の市壁も、これに続いて 1360-70年頃に築かれたが、全長約6kmにおよぶ大規模なものである。

CIMG0867 (1024x768)ノートルダム・デ・ドン大聖堂 La cathédrale Notre-Dame des Doms (左) を含めた
教皇宮殿の全景 (北側から南方向を望む)

CIMG0692 (1024x768)大聖堂 (左) と宮殿北側の旧宮殿の部分

さて、チケットを買って宮殿内部に入る。初め私はそのまま内部を見学するつもりだったが、回りの多くの訪問者が有料のオーディオガイドを使っているのを見て自分も借りてみることにした。多少迷ったが、母語である日本語のガイドを選択。このガイドが大変充実した内容だった。このガイドによって、私はさっそく、アヴィニョンへの教皇の遷座についての次に見るような思い込みを修正することができた。

CIMG0615 (1024x768)宮殿内の中庭の一つ (旧宮殿部分)

II. 辺境の町アヴィニョン?

たとえば高等学校の検定教科書『詳説世界史』(山川出版社)は、次のようにアヴィニョンに教皇庁が置かれる経緯を記述している。
「各国ごとの統一的な政治的権力が弱かった時代には西ヨーロッパ全体におよんでいた教皇の権威も、十字軍〔1096年第1回十字軍、以後13世紀末まで〕の失敗から傾きはじめ、各国で王権がのびるとさらに衰えをみせるようになった。13世紀末に教皇となったボニファティウス8世(在位1294-1303)は教皇権の絶対性を主張し、聖職者への課税に反対してイギリス・フランス国王と争った。しかし1303年、教皇はフランス王フィリップ4世(在位1285-1314)にとらえられ、まもなく釈放されたが屈辱のうちに死んだ(アナーニ事件 1303)。
フィリップ4世はその後、教皇庁を南フランスのアヴィニョンに移し、以後約70年間、教皇はフランス王の支配下におかれた。これを古代のバビロン捕囚にたとえて「教皇のバビロン捕囚」(1309-77年)という。その後、教皇がローマに戻ると、アヴィニョンにもフランスの後押しをうけて別の教皇がたち、両教皇がともに正統性を主張して対立した。これを教会大分裂(1378-1417、大シスマ)と呼ぶ。この事態によって、教皇と教会の権威失墜は決定的となった。」(強調は引用者による)

フランス王であるフィリップ4世が教皇庁をローマから南フランスのアヴィニョンに移した、つまり、フランス王フィリップ4世は<自分の国に教皇庁を持っていった>、と読める。では百科事典はどのように叙述しているだろうか。日本を代表する百科事典の一つ、小学館『大日本百科全書』の「アビニョン」の項は次のように記述する。
「〔アヴィニョンへの〕教皇遷座の原因は、ボニファティウス8世の死(1303)後に枢機卿 (すうきけい) 団が分裂し教皇選挙が困難になったことと、アナーニ事件の事後処理に絡んでフランス王が干渉してきたことに求められるが、さらにイタリアの教皇領に生じた無政府状態がこれを助長した。
ローマ・フランス対抗関係の中立派として教皇に選出されたボルドー司教クレメンス5世(在位1305~14)は、フランス王フィリップ4世の干渉下でのローマ入りを断念し、プロバンス伯領内のアビニョンに教皇庁を仮設した(1309)。続くヨハネス22世(在位1316~34)、ベネディクトゥス12世 Benedictus XII(?―1342、在位1334~42)、クレメンス6世 Clemens VI(1291―1352、在位1342~52)3 代の間に城砦 (じょうさい) 風大宮殿と市城壁が建造され、1348年にプロバンス女伯(ナポリ・シチリア女王)[Jeanne de Naples] より金貨8万フローリンで全市が購入され、次のインノケンティウス6世 Innocentius VI(?―1362、在位1352~62)時代までに難攻不落の教皇領都市が完成した。」

この項目を慎重に読めば、教皇庁が置かれた当時のアヴィニョンは「プロバンス伯領内」にあり、「プロバンス伯」は、その頃「ナポリ・シチリア王」でもあったことがわかる。 実は、このナポリ・シチリア王家(アンジュー=シチリア家)はフランス王家であるカペー家の分家であった(文献 9-3)。とはいえ、「世界史地図」で14世紀初頭の西ヨーロッパを見ればわかるように、プロヴァンス伯領はフランス王国ではなく神聖ローマ帝国に属しており、形式的にはプロヴァンス伯はフランス国王とは主従関係にはなかったことがわかる。結局、「クレメンス5世は、フランス王フィリップ4世の干渉下で」、フランス王国領とはローヌ川で隔てられているだけの、神聖ローマ帝国内の都市アヴィニョンに教皇庁を置き、その後、現実には教皇職はフランス国王の「掣肘(せいちゅう) 下」(文献 8-2 )に置かれた、ということのようだ。

J. M. ロバーツ著『図説 世界の歴史5  / 東アジアと中世ヨーロッパ』(文献 1 )もこの見方を支持してくれる。
「〔ボニファティウス8世のあとを次いだベネディクトゥス11世も八カ月あまりで赤痢で死去し〕その後は約一年にわたってフランス派と反フランス派の枢機卿の対立がつづき、ローマ教皇は選出されませんでした。そして最終的に教皇に選ばれたのがボルドー大司教のクレメンス5世(在位:1305-14年)だったのですが、彼は当初からフランス王フィリップ4世の強い影響力のもとにあり、登位したのも王が臨席したリヨンにおいてでした。結局その後クレメンス5世は、一度もローマをおとずれることのないまま、1309年にローマ教皇庁をフランス南東部のアヴィニョンに移すことになります。当時アヴィニョンはナポリ王の所有する町でしたが、フランス王の影響下にありました。」
なお、ボルドーは当時イングランド王国の領地であり、その地の大司教であったクレメンス5世は最初からフランス方(がた) であったわけではなかろう。また、リヨンは、後でみるプロヴァンス地方と同様にブルグント王国、神聖ローマ帝国と帰属したが、14世紀初頭のリヨンは、それまで実権を握ってきたリヨン大司教から、フィリップ4世に支援されたブルジョワジーによる Consulat (市参事会)への権力の移行期であったようだ。そして1312年には、このリヨンの町自体がフィリップ4世のフランスに併合されることになる。

私はヨーロッパの歴史に深く通じているわけではない。ただ、形式的にはあくまでも神聖ローマ帝国領であったアヴィニョンに教皇庁が置かれたことには、フランス側からも教皇の地位への一定の配慮があったのかもしれないと感じる。というのも、962年に東フランク王国のオットー1世が教皇ヨハネス12世によって皇帝に任ぜられて以来、ローマ教会と「帝国」(後の神聖ローマ帝国)、教皇と皇帝は、理念上は補い合って西ヨーロッパのキリスト教世界を支える関係にあったからである。つまり、教皇は皇帝を権威づけ、皇帝は教皇とローマ教会を守護する任務を負った。

現実には教皇と皇帝の間には軋轢、権力闘争のようなものが生じた。最も大きな闘争は、高位聖職者の任命権をめぐる「(聖職者) 叙任権闘争」で、その過程で両者はカノッサの屈辱 (1077年)、ウォルムス協約 (1122年) と一進一退し、1200年ごろのインノケンティウス3世 (在位: 1198-1216年) において一時教皇が優位に立った。しかし、ほどなくヨーロッパ各国においては国家意識の芽生えが顕在化するようになり、聖職者たちも国家に共感を覚えるようになった。特にイングランドとフランスではこうした傾向が顕著だった。事実、フランス王フィリップ4世は教皇の権威を否定するに至ったが、聖職者たちは王の味方についた。

こうした中でボニファティウス8世の監禁事件が起き、クレメンス5世がフィリップ4世の影響下で登位することになる。とはいえ、教皇がローマの教皇領を離れてフランス王国内に遷座するとしたら、さすがにスキャンダルだったのではなかろうか。この場合、それまでの教皇と皇帝の相補的関係という理念にも配慮して、教皇庁は神聖ローマ帝国内に置く選択がなされたのではなかろうか(文献1, 2)。なお、P. G. M. スチュアートは、クレメンス5世は「気に入った滞在先を求めてフランス中を旅し、ついにアヴィニョンにあるドミニコ会修道院に落ち着」いたとしている(文献 3 )。実際、クレメンス5世は、アヴィニョンに居を定める前にフランス王国内のポワチエにも滞在したようだが、教皇の好みだけで教皇庁の立地が決まるものでもあるまい。

なお、ひとまずアヴィニョンのドミニコ会修道院に入ったクレメンス5世が、次に教皇庁の機能を置いたのは、アヴィニョンから北東方向に 20km ほどの所にあるカルパントゥラ Carpentras という町であったとされる。この町は後に見るコンタ・ヴネサン Comtat Venaissin 地域の中心都市であり、歴史的に神聖ローマ帝国領であったが、コンタ・ヴネサン地域自体が1274年に教皇領となっていたらしい。その後、教皇庁はアヴィニョン市内に移されることになるが、当時のアヴィニョンの状況については後で見よう。(文献 15-3, 16-3)

 *          *          *

私は以前より小学館『大日本百科全書』の「アビニョン」の項などには目を通していたが、高校の教科書などから<フランス王が自分の国に教皇庁を持っていった>と思い込んでしまっており、「プロバンス伯領」とされていることは深く考えなかった。そうした記述を見ても、フランス王国内の領地なのだろうくらいに感じていたのだと思う。教皇宮殿のオーディオガイドは、その冒頭で、当時のアヴィニョンがフランス王国領ではなかったことにふれており、私はそれまでの勘違いを正すことができた。その後は、この町で手に入るガイドブックやパンフレットなどの、文字による多くの情報もより正しく理解することができるようになった。たとえば、聖ベネゼ橋 Pont St-Bénézet でアヴィニョンと結ばれていた、ローヌ川の対岸のフランス王国領の町〔現在のヴィルヌーヴ・レ・ザヴィニョン Villeneuve lez Avignon [アヴィニョン近郊の新しい町、の意] 〕についての情報などもその一つである。今では、高校の教科書の記述に「現在のフランス領の都市アヴィニョン」などと書いてくれていたらよかったのに、とも感じている。

III. プロヴァンスの歴史

アヴィニョンがプロヴァンス伯領の都市であったことを見た。では、プロヴァンス伯領はどのように形成されてきたのか。かのフランク王国(800年にシャルルマーニュ [カール] がローマで戴冠した後はフランク帝国)は843年のヴェルダン条約で西、中、東のフランク王国に三分された。9世紀中(879年)には、中フランク王国からプロヴァンス王国(南ブルグント王国)が独立した。このプロヴァンスは後に在地の貴族により統治されるようになった。一方888年には別途北ブルグント王国が独立していたが、933年の条約により、プロヴァンスはこの北ブルグント王国に組み込まれた。この王国はアルルを首都とすることになり、単にブルグント王国、あるいはアルル王国と呼ばれた(もちろんフランク王国の拡大以前に存在した旧ブルグント王国とは別の国である)。1032年、このブルグント王国は神聖ローマ皇帝コンラート2世に相続され、プロヴァンス地方も神聖ローマ帝国に統合された。

1125年、プロヴァンス地方はデュランス川で分割され、川の北側はトゥールーズ伯家がプロヴァンス辺境領 Marquisat de Provence として領することとなり、南側はバルセロナ伯家がプロヴァンス伯領 Comté de Provence として領することとなった。北の辺境領からは、1150年にフォルカルキエ伯領が分離した。13世紀に入り、トゥールーズ伯家最後の女伯ジャンヌ Jeanne de Toulouse はフランス王ルイ8世の王子アルフォンス・ド・ポワティエ Alphonse de Poitier と結婚した。これにより、1271年にアルフォンスが没すると、プロヴァンス辺境領はフランス王家(フィリップ3世)のものとなった

Carte_provence_112512世紀におけるプロヴァンスの分割 (Wikimediaより)

一方、南側のプロヴァンス伯領(1189年より首都エクス)は、1193年になると婚姻により上記フォルカルキエ伯領と統合された(文献 15-3)。その後、1246年にはフランス国王ルイ9世聖王の弟シャルル(1227 – 1285)がプロヴァンス伯の末娘と結婚し、プロヴァンス伯領を継承した。なお、シャルルは翌1247年にはフランス王国のアンジュー地方を封じられ、アンジュー伯シャルル(シャルル・ダンジュー)と呼ばれることが多い。このシャルルは後にナポリ・シチリア王ともなる(文献 15-2, 9-5)。こうして、アヴィニョンに教皇庁が移される時代にはプロヴァンス伯領は、フランス王家の分家であるアンジュー=シチリア家(ナポリ・シチリア王家)に相続されていた(文献 9-3, 9-4)。なお、このアンジュー・シチリア家は、シチリアと、ナポリを含むイタリア半島南部を統治していたが、1282年にシチリアの実際の支配権は失ったため、その国は通称としてはナポリ王国と呼ばれることになる。

なお、言語的にはプロヴァンス地方は、俗ラテン語が元となった方言の一つであるオック語圏に属した。13-14世紀当時はフランス北部地方の同様の方言であるオイル語(現在のフランス語の母体)が、政治力も背景として南部のオック語を次第に公共領域から追い払いつつあった時期であると思われる。一方で、当時、高位聖職者や法律家たちはまだラテン語を用いていた。

IV. アヴィニョンの歴史

こうしたプロヴァンスの歴史の中で、都市アヴィニョンの歴史も複雑なようだ。歴史の中でこの町は大きくは順に、プロヴァンス王国(南ブルグント王国)、ブルグント王国、そして神聖ローマ帝国に帰属した。具体的には、プロヴァンス伯、トゥールーズ伯、フォルカルキエ伯が共同統治したとのことだ。この間、1125年には、上述のようにプロヴァンス地方全体が南北に二分割されたが、アヴィニョンは共同統治が続いた。そうした中で、1129年には神聖ローマ帝国から自治権が認められ、Consulat (市参事会)が設立される(2年後には近隣の都市アルルも自治権を獲得する)。なお、アヴィニョンの統治権が市参事会へ委譲されるのは1135年とされる場合もある。さらに、12世紀末にはアヴィニョンは共和国としての独立を宣言するに至る。

この間、1177年から1185年の間ごろに、ローヌ川をまたぐ橋が建設され、聖ベネゼ橋と呼ばれた。かつてローマ期にも橋はあったが、崩落し、長らく放置されていたらしい。それまで人々はさらに下流のアルルなどで渡船によってローヌ川を越えていたが、この橋が使われるようになってアヴィニョンは交通上の要衝となった。アヴィニョンと対岸のフランス王国領を結んだこの橋は、フランス王がアヴィニョンに対して圧力を加えるためにも役立ったことだろう。(この段落、文献 4)

CIMG0694 (1024x768)「アヴィニョンの橋」の歌で有名な聖ベネゼ橋 Pont St-Bénézet.
現在は4つのアーチが残るのみだが、かつてはローヌ川の対岸のフランス王国領と
アヴィニョンを結んだ。写真で川の向こう側に見えるのは実は中州で、この橋はさらに
先の川の対岸にまで至る、22のアーチを持つ、長さ900mの長大な橋だったという。
この橋は17世紀の崩壊によって最終的に再建が断念された。

CIMG0699 (1024x768)ただし、聖ベネゼ橋の幅はこのように狭い。

その後のカタリ派運動の中では、アヴィニョンはカタリ派を支持したトゥールーズ伯(フロヴァンス辺境伯)の側に立った。その結果、1226年にアルビジョア十字軍を率いたフランス王ルイ8世によって占領され、武装解除され、当時の市壁は破壊された。聖ベネゼ橋も破壊されたが、ほどなく市民の力で再建された。その後1249年には、トゥールーズ伯の死を受けて、市は再度共和国を宣言した。しかし、1251年には、プロヴァンス辺境伯(アルフォンス・ド・ポワティエ)とプロヴァンス伯(シャルル・ダンジュー Charles d’Anjou)による共同統治を受け入れさせられた。

前述のように、1271年にプロヴァンス辺境領がフランス王家(フィリップ3世)のものとなると、アヴィニョンの半分もフランス王家のものとなった。このアヴィニョンの半分についての権利を引き継いだフランス国王フィリップ4世は、1290年にその権利をプロヴァンス伯に譲った。これによって、全アヴィニョンがプロヴァンス伯領に併合されることとなった。(なお、プロヴァンス辺境領を引き継いだフィリップ3世は、1274年に辺境領の南部地域、つまりアヴィニョンの近隣の一帯を教皇グレゴリウス10世に譲っている。この地域は Comtat Venaissin (コンタ・ヴネサン) と呼ばれることになる。ただし、文献 4,  8-1 は、教皇庁が後にアヴィニョンの町と同時にこの地域を買収したとしている。)

その後、1303年には教皇によってアヴィニョン大学が開かれた。これは、エクサンプロヴァンスにおける大学開設 (1409年) よりも一世紀以上も早い。こうして、プロヴァンス伯(アンジュー=シチリア家)統治下の都市アヴィニョンは、1309年に教皇庁を迎えることになるのである。一時は共和国として独立し、かつ異端カタリ派を支持して弾圧を受けもした町が、その後時を経て教皇庁を迎えることになるのは歴史の皮肉である。それにしても、ヨーロッパ史は複雑で一筋縄ではいかないものだ。

教皇庁を迎えたアヴィニョンは中世西ヨーロッパ最大の行政都市となっていく。アヴィニョンの教皇の多くが、枢機卿をはじめとする教皇庁高官のアヴィニョン在住を求めたため、教皇庁がローマにあったときには見られなかった行政機能の集積が実現したようだ。クレメンス6世が教皇であった 1348年には、町はプロヴァンス女伯から買い取られて教皇領となる。この間、フランスはイングランドとの間の百年戦争(1338年-1453年)に突入している。フランスが百年戦争によって窮乏していくのと対照的に、アヴィニョンはまた、現在の南フランス地域の商業、金融活動と結び付いて繁栄を極めたという。この時期の人口は2万人前後とされ、1377年に教皇庁がローマに帰還する直前の時点で3万人といわれる場合もある。教皇がローマに戻った翌1378年には対立教皇がアヴィニョンに立つことになり、この教会大分裂(大シスマ)が解消する1417年まで、結局100年以上にわたってアヴィニョンはヨーロッパ史、キリスト教史の表舞台にとどまるのである。(以上、文献 4, 8-1, 8-2, 8-3, 10 を参照した。)

 *          *          *

アヴィニョンに教皇庁があった時期以降のヨーロッパの歴史について少しふれれば、上の『図説 世界史』によれば、このこのいわゆる「アヴィニョン捕囚」期に、教皇権がフランス王の影響下におかれたことに反発したイングランドやドイツの諸邦が「ローマ教皇から離反」していったとされる(文献 1)。プロヴァンス伯領については、プロヴァンス伯シャルル3世に嗣子がなかったため、同伯領はフランス王が相続することとなり、結局、1486年に正式にフランス王国に組み込まれたとのことだ(文献 15-2)。一方、アヴィニョンは教皇領としてとどまり、この状態はフランス革命で市が周囲の教皇領とともに没収されるまで続くのである(文献 1, 8-2, 10-1)。

V. 結び

アヴィニョンと、プロヴァンス地方などその周辺地域には、古代よりガリア人、イオニア人、ローマ人、ブルグント人、フランク人、アラブ人(7世紀頃)などが痕跡を残してきた。民族の出入りが一段落ついてからも、上に見たようにその歴史は錯綜している。アヴィニョンに教皇庁があった時期を過ぎて15世紀から16世紀への世紀の変わり目には、教皇領であり続けたこの都市に庇護を求めてユダヤ人が移り住んだりもしたようだ(文献 10, 16-1)。結局、アヴィニョンがフランス国の一都市に落ち着くのは、フランス革命を経てのことなのである。

アヴィニョンを訪れ、神聖ローマ帝国の辺境にあったこの町に教皇庁が置かれたことに興味を覚えてこの町の歴史をたどってみたが、その歴史は想像以上に複雑なものだった。また、この町に限らず、多くの民族、政治勢力が行き交う大陸の町の歴史は、島国日本の一地方の歴史とは比較にならないような、スケールの大きな背景を持って紡ぎ出されてくるようだ。

「百聞は一見にしかず」とはよく言われる。ふつう、事実は実際に感覚的に経験したほうがよく分かる、くらいの意味で使われると思う。しかし、感覚的な情報以外にも、現地にはやはり豊かな情報があり、現地を訪れることで初めて分かってくることも多いことを再認識させられた今回の旅だった。

 *          *          *

CIMG0633 (768x1024)教皇庁の内部は壁画等の芸術作品で装飾されていたが、1413年に火災に遭い、
また革命期にも破壊された。現在は、災厄を逃れた一部を除いて壁がむき出しになって
いる。芸術作品がすべて現存していれば、教皇庁の文化的価値はさらに高まって
いたことだろう。 残された「鹿の間 Chambre du Cerf 」のフレスコ画は私も見ることができたが、撮影は禁止されていた。また、やはりフレスコ画が残っているサン・ジャン
礼拝堂 Chapelle Saint-Jean とサン・マルシアル礼拝堂 Chapelle Saint-Martial は
あいにく閉鎖されていた。
これらのフレスコ画については、Wikipedia「アヴィニョン教皇庁」の項の英語版の該当個所(あるいはフランス語版の該当個所)を参照していただきたい。

CIMG0650 (768x1024)大礼拝堂 Grande Chapelle

CIMG0826 (1024x768)高台にあるノートルダム・デ・ドン大聖堂 La cathédrale Notre-Dame des Doms の
前から教皇宮殿前の広場を望む

CIMG0830 (1024x768)プティ・パレ美術館 Musée du Petit Palais.
美術館のサイトはこちら(フランス語)。建物は14世紀の建造のかつてのアヴィニョン大司教の公邸。13世紀終わりから16世紀初頭にかけてのイタリア絵画とプロヴァンス絵画 300点以上と、アヴィニョンのロマネスク様式とゴシック様式の彫刻を収蔵。

CIMG0833 (768x1024)La Vierge de Majesté avec six anges et les donateurs Paci
Première moitié du XIVe siècle

CIMG0859 (1024x768)Antoniazzo Romano (le XVe siècle)
La “Navicella”, d’après Giotto

CIMG0889 (768x1024)サン・ディディエ教会 Église Saint-Didier

 *          *          *

参考文献:
1. J. M. ロバーツ『図説 世界の歴史5  / 東アジアと中世ヨーロッパ』〔第2部第5章 紀元1000年以降のヨーロッパ:「第二の形成期」または「最初の革命の時代」〕、日本語版監修・池上俊一、2003、創元社
2. J. M. ロバーツ『図説 世界の歴史4  / ビザンツ帝国とイスラーム文明』〔第5章 ヨーロッパ世界の形成〕、日本語版監修・後藤 明、2003、創元社
3. P. G. マックスウェル・スチュアート『ローマ教皇歴代誌』月森左知・菅沼裕乃訳、1999、創元社
4. 樺山紘一『パリとアヴィニョン-西洋中世の知と政治』、1990、人文書院
5. F. フェルテン「アヴィニョン教皇庁の実像」、同『中世ヨーロッパの教会と世俗』所収、甚野尚志編/訳、2010、山川出版社
6. 亀井高孝他編『増補版標準世界史地図』、1989、吉川弘文館
7. 小学館『大日本百科全書』: 7-1.「アビニョン」7-2.「アビニョン教皇庁」7-3.「シチリア王国」7-4.「神聖ローマ帝国」7-5.「ナポリ王国」7-6.「プロバンス」
8. 平凡社『世界大百科事典』: 8-1.「アビニョン」8-2.「アビニョン捕囚」8-3.「シチリア王国」8-4.「神聖ローマ帝国」8-5.「ナポリ王国」8-6.「プロバンス」8-7.「ローマ理念」
9. Wikipedia (日本語版): 9-1.「アヴィニョン」9-2.「アヴィニョン教皇庁」9-3.「アヴィニョン捕囚」9-4.「プロヴァンス伯」9-5.「アンジュー家」
10. Jean Baptiste Marie Joudou, Avignon, son histoire, ses papes, ses monuments, 1842, Avignon, Aubanel (reprint edition, 2014, Maxtor France)
11. Philippe Prévot, Histoire du ghetto d’Avignon : à travers la carrière des juifs d’Avignon, 1975, Avignon, Aubanel
12. Pierre Larousse, Grand Dictionnaire Universel du XIXe siècle, Article “Avignon”, Version DVD-ROM PC, 2002, Redon.
13. H. Kinder & W. Hilgemann, Atlas historique (french translation), 1987, Perrin (=Atlas of World History [english translation], 1978, Penguin) (オリジナルはドイツ語)
14. Georges Duby, Atlas historique, 1987, Larousse
15. Wikipedia (french version): 15-1.”Avignon”, 15-2.”Liste des souverains de Provence”, 15-3.”Provence”, 15-3. “Clément V”
16. Wikipedia (english version): 16-1.”Avignon”, 16-2.”Provence”, 16-3. “Pope Clement V”