ディジョン Dijon

 

ディジョンは、西欧の歴史に大きな影響を与えたブルゴーニュ公国の宮廷所在地(首都)であった。しかし、現代のディジョンは落ち着いた一地方都市である。町の中心部はこじんまりとしていて、主な観光スポットは歩いて見て回ることができる。かつて西欧の歴史の一つの中心であったとはすぐには感じられない。旧市街を観光していると小さな町に感じられるが、これでも、第二次大戦後都市化が進み、都市圏全体は拡大したのだという。現在、市としての人口は15万ほど、都市圏人口で37万人ほどとのことだ。

以下、最初にディジョンと、この町を首都としたブルゴーニュ公国の歴史を一瞥したい。 なお、私は歴史の専門家ではなく、典拠は百科事典の項目であり、Wikipedia も参考にしている。

ディジョンはブルゴーニュ公領 Duché de Bourgogne の宮廷の所在地であった。ブルゴーニュ公家には、まず1031年から1361年まで続いたカペー家傍系ブルゴーニュ公家がある。1361年に公家の男系が絶えると、公領はいったんフランス王家であるヴァロア家に吸収され、1363年に国王ジャン2世の末男フィリップ (1世) に与えられ、ヴァロア家傍系のブルゴーニュ公家が成立した。1361年から1477年まで、4代にわたる、このヴァロア家系ブルゴーニュ家は、本来のブルゴーニュ公領に加えて、フランドル地方(現在のベルギー周辺)などに支配を拡大し、今日の歴史学で「ブルゴーニュ国 État bourguignon 」とも呼ばれる支配地域を形成した。公国は、経済的先進地域であったフランドルを支配下に置いたこともあり、当時の西ヨーロッパの経済・文化の一大中心地となった。カペー家系ブルゴーニュ公家の時代から400年以上にわたり宮廷はディジョンにあったが、Wikipedia日本語版によると1419年にブリュッセル(現ベルギー)に移ったとのことである。一方、Wikipediaフランス語版では、「ブルゴーニュ国」時代には宮廷は巡回し、いわゆる首都はなかったとしている。

ヴァロワ家系ブルゴーニュ家の事績は興味深い。4代のブルゴーニュ公とは、(1) フィリップ大胆公 (豪胆公) Philippe le Hardi (在位1363-1404)、(2) ジャン無怖公 Jean sans peur (在位1404-1419) 、(3) フィリップ (2世) 善良公 Philippe le Bon (在位1419-1467) 、(4) シャルル豪胆公 (突進公) Charles le Téméraire (在位1467-1477) 、である。たとえば、二代目のジャンは、フランスにおける王弟オルレアン公ルイと暗闘を繰り広げ、1407年にルイが謀殺され、1419年にはジャン自身も謀殺されることになる。いわゆるアルマニャック派(ルイの岳父アルマニャック伯の名に由来)とブルゴーニュ派の対立である。

また、三代目フィリップはイギリス王家との同盟に踏み切り、かのシャルル7世とジャンヌ・ダルク (その出現は1429年) と敵対したことで知られている。フィリップはフランス王国から離脱することもできたであろうが、その決断を下さず、結局、フランス国王シャルル7世 (在位1422-61) とアラスの和睦 (1435年) を結ぶことになる。四代目シャルルはついに、ルイ11世 (在位1461-83) のフランス王国からの離脱を図るが、その途上、1477年に戦死する。シャルルの一人娘マリアは、シャルルが生前承諾していた通り、オーストリア・ハプスブルク家のマクシミリアン(後の皇帝)と結婚する。この結果、ブルゴーニュ公領、アルトア伯領などはフランス王家に編入されるが、ネーデルラント、フランドル諸領邦とブルグント伯領はハプスブルク家の所領となった。

ディジョンがブルゴーニュ公国の首都であったと言いうるのは、この内、二代目のジャンの時代までのことのようだ。しかし、ディジョンに宮廷があった時代に、後代に名を留めるブルゴーニュの宮廷文化の基礎は作り上げられたのである。このブルゴーニュ文化は、公家の家勢が伸張するのに応じて、パリや、フランドルやアルトア地方各地に影響を及ぼしていったとされる。

Google Map 日本語版のディジョンの地図はこちら
Wikipedia 日本語版のディジョンの項はこちら
Wikipedia 日本語版のブルゴーニュ公国の項はこちら
上の写真:ブルゴーニュ公宮殿のフィリップ善良公の塔からのディジョン西部の眺め(Wikipedia フランス語版より)

なお、ディジョンには上述のルイ11世が建造した城砦 château fort もあったが、19世紀末に論争の末に取り壊されたとのことだ。以下、写真でディジョンの町を紹介したい(写真はどれもクリックして拡大できる)。撮影は2013年3月。厚い雲に覆われた一日だった。

 

OLYMPUS DIGITAL CAMERAギヨーム門 Porte Guillaume (右奥).
この門の向こう側が旧市街を含む町の中心部になる。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA中心街

旧市街

旧市街

OLYMPUS DIGITAL CAMERAブルゴーニュ公宮殿 Le Palais de Duc de Bourgogne.
現在見られる建物は17世紀の完成。奥の塔は「フィリップ善良公の塔」と呼ばれ、フィリップの在位中の1450年~1460年の建造。宮殿は現在、市庁舎(左翼)と美術館(右翼)として使われている。 美術館はあいにく休館中だった。

OLYMPUS DIGITAL CAMERAノートルダム教会 Église Notre-Dame.
13世紀後半の建造。旧市街の中心、ブルゴーニュ公宮殿の裏手にある。正面には魔よけの群れが並ぶ。右側の塔には、子供連れの珍しい時打ち人形 Jacquemart (1382, Wikipediaフランス語版の画像) がある。

OLYMPUS DIGITAL CAMERAノートルダム教会正面

OLYMPUS DIGITAL CAMERAノートルダム教会北側の外壁角にある幸福のフクロウ
(手前の茶色く変色しているところ、拡大写真はこちら[Wikipediaフランス語版])。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA壁面アート

OLYMPUS DIGITAL CAMERA右は旧サンテティエンヌ教会 Église Saint-Étienne (現在は一階部分が公立図書館 Bibliothèque “La Nef” となっている [nef は身廊の意])。左奥はサン・ミシェル教会 Église Saint-Michel.

OLYMPUS DIGITAL CAMERA大司教座が置かれているサン・ベニーニュ大聖堂 Cathédrale Saint-Bénigne.
この教会も13世紀の完成とされる。。

OLYMPUS DIGITAL CAMERAサン・ベニーニュ大聖堂地下のクリプト Crypte (地下祭室)。

OLYMPUS DIGITAL CAMERAシャンモル修道院 Chartreuse de Champmol.
左手前が『モーセの井戸 Puits de Moïse 』を囲う建物 (この建物は後世のもの)。
この修道院は、ヴァロワ家系ブルゴーニュ家のフィリップ (1世) 大胆公によって一族の墓所として建設された。現在は病院になっているらしい。ディジョンの中心部からしばらく歩いた所にある。

OLYMPUS DIGITAL CAMERAクラウス・スリューテル Claus Sluter (1355頃 – 1406) (Wikipedia 日本語版) 作 『モーセの井戸 Puits de Moïse 』(1396~1405) (Wikipedia フランス語版)。
預言者ダニエル (左) と同イザヤ (右)。

OLYMPUS DIGITAL CAMERAモーセ (左) とダヴィデ (右)

OLYMPUS DIGITAL CAMERA預言者エレミヤ (左) と同ザカリヤ (右)

 

参考文献:
1. ヨハン・ホイジンガ『中世の秋–フランスとネーデルラントにおける十四、十五世紀の生活と思考の諸形態についての研究』(1919)、堀越孝一訳、中央公論社 (『世界の名著』版:1967 ; 新版:1971 ; 中公クラシックス版I-II:2001) ; 『中世の秋–一四、五世紀フランスおよびネーデルラントにおける生活形式と精神形式の研究』(1919)、兼岩正夫、里見元一郎訳、河出書房新社 (角川文庫 (上下):新版1984 ; ホイジンガ選集6:1971(新装版1989))、1989. (ホイジンガについてはこちら(Wikipedia日本語版) を参照。)
2. 小学館『大日本百科全書』: 「ブルゴーニュ公国」(執筆:堀越孝一)
3. 平凡社『世界大百科事典』: 「ブルゴーニュ公国」(執筆:堀越孝一)
4. Wikipedia (日本語版): 「ブルゴーニュ公国」、「ディジョン」
5. 亀井高孝他編『増補版標準世界史地図』、1989、吉川弘文館
6. Wikipedia (french version): ”Dijon”, ”Puits de Moïse”, ”Duché de Bourgogne”
7. Wikipedia (english version): ”Dijon”, ”Duchy of Burgundy”

(2017年7月28日公開)