ナンシー Nancy

 

フランス・ロレーヌ地方の中心都市ナンシーは人口10万人ほど。都市圏としては40万人を超える。この町は、ロレーヌ公スタニスラス・レスチンスキ(レシチニスキとも)(1677-1766)の影響が色濃く残る町である。
スタニスワフ・レスチンスキはポーランド国王およびリトアニア大公、後のロレーヌ公。フランス語つづりは Stanislas Leczinski, フランス語読みはスタニスラス・レクザンスキ。フランス王ルイ15世の妃マリー・レクザンスカの父である。

私はスタニスラスの伝記や、彼が生きた時代の歴史の専門家ではないので、Wikipedia のフランス語版、英語版、日本語版を参考に、スタニスラスの生涯を簡略に再構成してみよう・・・
スタニスラスはポーランドの由緒ある家柄に生まれた。ポーランドでは1572年から貴族層が構成する議会で国王を選挙する選挙王制が敷かれていたが、1700年から1721年にかけてスウェーデンと反スウェーデン同盟(北方同盟)が戦った大北方戦争(英語: Great Northern War)の過程で、スタニスラスはスウェーデン王カール12世に推されてポーランド王に選出された (実質的在位1704年-1709年)。1709年カール12世が敗北すると、王位を退き、アルザス地方やロワールのシャンボール城で暮らした。その間、1725年には娘のマリアがルイ15世の妃となった。その後のポーランド継承戦争(1733年-1735年)では、フランス王ルイ15世に推されて再度ポーランド王に選出された(在位1733年-1736年)が、フランスが影響力を失うと再度王位を退いた。その後は、ルイ15世より、1代限りという条件でロレーヌ公国を譲られ、1738年からこの地でロレーヌ公として晩年を過ごした。スタニスラスはロレーヌの首都ナンシーに都市計画を施し、その一環としてフランス王ルイ15世を称える国王広場(プラス・ロワイヤル Place Royale)を作らせた。広場やそこを取り囲む建物などはエマニュマル・エレ Emmanuel Héré の設計である

スタニスラスは晩年、学芸の保護と探究にも打ち込んだ。かのジャン=ジャック・ルソー (1712-1778)は、出世作『学問芸術論』(1750年)で、学問・技芸の進歩は人間を堕落させ不幸にすると逆説的に論じたが、スタニスラスはこの著作に対する『反駁』を匿名で発表した(1751年)。なお、ルソーはそれに対してさらに『回答』を発表している(同年)。

上に見た国王広場に当初設置されたルイ15世の像は革命期に破壊されたが、革命後の1831年にスタニスラスの像が設置され、広場もスタニスラス広場と改称された。スタニスラス広場と、やはりスタニスラスが整備した、隣接するカリエール広場、アリアンス広場は1983年に一括してユネスコの世界遺産に登録された。

Google Map 日本語版のナンシー中心部の地図はこちら
Wikipedia 日本語版のナンシーの項はこちら
以下の写真は2007年3月撮影

 

鉄道駅から徒歩で東方向にスタニスラス広場 Place Stanislas へと向かう。金色の装飾の施された広場の門が見えてきた。私はアンリ・ポワンカレ通り、ガンベッタ通りとたどり、広場の南西の角へと出た。もう一本北側(写真では左側)のスタニスラス通りを行けば、広場の西面の中央に出る。

南西の角から見るスタニスラス広場。写真の中央、広場の奥が、下の写真で見るエレ通り Rue Héré への入り口。次の写真のスタニスラス一世像は門の右側の柵の向こう側にある。

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スタニスラス一世の像 Statue de Stanislas Ier Leczinski と広場の南側

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スタニスラスの像の顔の部分(Wikipedia より)

スタニスラス一世像の背面と広場の北側。像の正面に短いエレ通り Rue Héré があり、その先にエレの凱旋門〔エレ門〕Arc (de Triomphe) Héré が見える。エレ Héré は広場、通り、凱旋門の設計者。写真右側は催し物のための仮設物。

スタニスラス一世像を背にして、広場から、エレ通りの先にエレの凱旋門〔エレ門〕を望む。映画『去年マリエンバートで L’Année dernière à Marienbad 』(1961) (監督: アラン・レネ Alain Resnais (1922 – 2014) ) の世界に迷い込んだ心地がした。

エレの凱旋門の上部の装飾

広場の西面、および北西の角のネプチューンの泉(右奥)

広場の北東の角のアンフィトリテの泉

スタニスラス広場についてはウィキペディア等も参照されたい。
フランス語版ウィキペディア  http://fr.wikipedia.org/wiki/Place_Stanislas では、多くの写真や図を見ることができる。

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スタニスラス時代に再整備されたカリエール広場。スタニスラス広場からエレ門を抜けたところに現れる。奥は同時期にエレによって建造された地方総督官邸(Palais du Gouverneur)。

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カリエール広場からスタニスラス広場方向を見る。エレ門の裏側が見える。
遠景はナンシー大聖堂。

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アリアンス広場。設計はスタニスラス広場と同じくエレ。

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旧市街の北端にあるクラッフ門 Porte de la Craffe 。旧市街側から見たところ。
中世の防塁の一部で14世紀の建造。

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クラッフ門の反対側。こちら側は16世紀に整備された防塁の一部。クラッフ門に接して建造された。左側の入り口からそのままクラッフ門を抜けて旧市街に入る。

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ロレーヌ公宮殿(Palais ducal, Palais des Ducs de Lorraine)(現ロレーヌ博物館)の正面外壁の装飾。この建物は1512年の完成。

ナンシー大聖堂。スタニスラスがロレーヌ公となる以前から計画されていたこの大聖堂もスタニスラスの治下に完成した。規模はそれほど大きくはない。

大聖堂の内部。

サンテプヴル教会 Basilique Saint-Epvre.
取り壊されたゴシック様式の教会の跡に、19世紀にネオゴシック様式で再建された。

 

〔このページの上部の写真〕
エレの凱旋門の上部装飾。最上部の金色の装飾部分では、ルイ15世の肖像を有翼の勝利の女神(上部)と平和の女神(左側)が囲んでいる(拡大写真はこちら)。下の碑銘には、ルイ15世を讃えて「敵の恐怖(の的)、平和条約の締結者、人民の誇りと愛(の対象)」とあるが、これはオーストリア継承戦争におけるフォントノワの戦い(1745年)でフランス軍が勝利したこと、1748年にアーヘン(フランス語名、エクス・ラ・シャペル Aix-la-Chapelle)でこの戦争の講和条約が締結されたことを指している。

(2015年3月29日)