ストラスブール Strasbourg

 

2017年9月にフランス東部、ドイツに隣接するアルザス地方の代表的都市ストラスブールを訪れた。30年以上も前に訪れて以来、2度目の訪問である。

ストラスブール市の人口は27万人ほど、周辺を含めた都市圏人口は76万人ほど (2009年) になり、フランスで9番目の都市圏を形成している。地図を見るとわかるように、ライン川の支流であるイル川(l’Ill)は、ストラスブールの位置で二手に分かれ、また合流する。その二本の流れに囲まれた部分がストラスブールの旧市街になる。

ストラスブールの町の礎石が置かれたのはローマ帝国においてのようだ。ローマ帝国はライン川をゲルマニアとの国境としたので、この地はローマ領であった。時代は下り、ストラスブールはドイツ系の神聖ローマ帝国に属することになる。現在の、マルセーユ、リヨン、ブザンソン、ナンシー、メッスあたりがフランス王国と神聖ローマ帝国との境界だった時期が長いので、ストラスブールが神聖ローマ帝国領にあったのは当然である。ドイツ系の帝国において、この町はシュトラスブルクと呼ばれていた。言語的には、この地はフランス語とゲルマン系言語の境界地帯だったと思われる。ストラスブールは、神聖ローマ帝国領にありながら、1262年には自由都市の権利を勝ち取った。

さて、宗教改革期にはこの町はプロテスタントを受け入れ、市内ではカトリックとプロテスタントが共存したようだ。1697年に至って、町はフランス王国領となる。1789年のフランス革命の開始後、フランスの政体は転変するが、1870年に第二帝政下のフランスがプロイセンと戦い(プロシア・フランス戦争、普仏戦争)、敗北すると、ストラスブールを含むアルザス地方(さらにはロレーヌ地方の一部)は新生ドイツ帝国に帰属することとなった。この状態は、1919年、第一次世界大戦でフランスがドイツに勝利し、割譲していた地域を再び領有するまで続く。この50年弱のドイツ帝国への帰属期間に、ストラスブール旧市街の北に新市街が建設された。

その後、第二次世界大戦で1940年にドイツが自国領とするが、1944年に連合国により奪回された。第二次大戦後は「ヨーロッパの歴史を象徴する都市」として、欧州議会などが置かれることになった。旧市街が1988年に世界文化遺産に登録され、さらに2017年には、その登録範囲が新市街(ノイシュタット)まで拡大されたとのことだ。

現在、文章の作成に充分な時間を取れないので、まずは今回撮影した写真を中心にアップし、文章は暇を見て補足していこうと思う。写真説明等にはWikipedia を参考にしている。

Google Map 日本語版のストラスブールの地図はこちら
Wikipedia 日本語版のストラスブールの項はこちら
上の写真: ストラスブールの欧州議会(奥の建物)[使用許諾取得画像]

 

フランス国鉄のストラスブール駅。
巨大な円盤型のOVNI (=UFO) が降り立ったところのようにも見える。

前の写真の現代的デザインの構築物の内側。古い駅舎の外壁を保存しながら、広い屋内空間を創り出したことがわかる。

Grand Rue (グランリュ、「大通り」の意).
旧市街を東西に延びる。往時のメインストリートであったと思われ、その雰囲気を残している。現在は歩行者専用道となっていて快適。写真は、駅を出て旧市街に入り、大聖堂の方面に向かう際の眺め。下で見るプティット・フランス地区は写真の右手の方向に入ってすぐのところにある。

ノートルダム大聖堂の正面(西側)。
尖塔の先端の高さは 142m に及ぶ。中世に完成した塔としては最も高いとのこと。シャルトル大聖堂はやはり中世の尖塔二本を持つが、それらの高さは115m と 105m. ドイツのケルンの大聖堂 の双塔は 157m あるが、いかんせん19世紀後半の完成である。

大聖堂の塔の根元の水平面までの高さは 66m であり、パリのノートルダム大聖堂の鐘塔の高さ 69m にほぼ匹敵する (アミアンの大聖堂の鐘塔は 68m, ランスの大聖堂の鐘塔は 81m)。

大聖堂として類を見ない精巧な作り。素材はヴォージュ山脈産出の赤色砂岩という。この西側正面の幅は 51.5m (ランス大聖堂 48.80m, アミアン大聖堂 48.78m, パリ大聖堂 43.5m)。

大聖堂内部。天井 (穹窿) までの高さは 31m. (パリのノートルダム大聖堂は 33m.)

南側の側面。
南側はこのように空間が開けている。北側は道路を隔てて、すぐ建物が立ち並ぶ。

イル川(l’Ill)は旧市街の西で二手に分かれ、旧市街を北と南から挟んで流れる。この写真は、南側の流れ(本流)を上流方向に見ている。このあたりは流れに高低差があり、元は急流だったと思われるが、船を通すために昔から堰堤(えんてい、ダム)と水門が設けられたようだ。写真は、比較的古い水門に遊覧船が入るところ。水門の手前と奥の二つの黒い扉を閉じ、内側で水位を上昇させて船を通す。

イル川は旧市街の西端で南北二手に分かれるが、南側は初め4本の川筋があり、それがほどなく1本にまとまる。川筋が4本ある一帯がプティット・フランス地区である。写真は、南側の流れの内の一番北の流れを上流方向に見たもの。

イル川が旧市街の西で分岐する地点をイル川の堰(せき)から眺める(Wikipedia 日本語版の「ストラスブール」の項より)
一番左の流れは旧市街の北側を流れる。他の流れ(写真では分かりにくいが4本ある)はやがて1本にまとまって、イル川の本流として旧市街の南側を流れる。イル川本流が4本に分かれている一帯がプティット・フランスと呼ばれる。

旧市街の南側を流れるイル川を越えたところにある旧「市民病院 Hôpital civil 」を構成する建物。
この病院はその起源を12世紀に遡る由緒のある病院で、現在はストラスブールの大学病院全体の中核施設となっているようだ。2008年に新「市民病院」が開業したとのこと。写真の建物は屋根の部分に多くの窓がしつらえられた独特のスタイルで人目を引く。

旧市民病院付近から大聖堂を望む。遠方から見ると塔の部分が大変大きいことが分かる。

オム・ドゥ・フェール〔鉄の男〕広場 Place de l’Homme de fer.
トラムの複数の路線が交差する市内交通の結節点。広場の名前は、18世紀に、軍に仕えた鍛冶屋が自分の店の外壁に、甲冑(かっちゅう)をつけた兵士の人形を取り付けたことに由来する(写真の左隅の建物の外壁に小さく見える、Wikipedia の拡大写真はこちら)。現在はコピーが取り付けられているが、本物も歴史博物館 Musée historique で見ることができるとのこと。

プロテスタントの聖パウロ教会 L’église Saint-Paul.
1892年から 1897年にかけて、ネオ・ゴシック様式で建設。塔の高さは 76m. 最近修復された。ストラスブールがドイツ帝国に帰属した19世紀末には、旧市街の北東に新市街の開発が進んだ。この教会は新市街の入り口の位置、以下に見る共和国広場Place de la République と大学宮 Palais universitaire との間の一等地に立つ。

同じく共和国広場に面する国立大学図書館 Bibliothèque nationale et universitaire.

大学宮 Palais universitaire の正面
ストラスブールがドイツ帝国に帰属した時期、1879年から 1884年にかけて建設された。

上の写真からはみ出た大学宮正面左端の部分。
ドイツの偉人の名前が彫られ、立像が飾られている。左から、ルター Luther (1483-1546), ライプニッツ Leibniz (1646-1716), ケプラー Kepler (1571-1630), シュトゥルム Joh. Sturm (1507-1589, ストラスブール[独、シュトラスブルク]のプロテスタントの教育者)。右端の部分にも同様に次の偉人の名前と立像が認められる(写真はこちら)。カント Kant (1724-1804), ガウス Gauss (1777-1855), ミュラー Joh. Müller (1801-1858, 生理学者), サヴィニー v. Savigny (1779-1861, 法学者).

トラムも走る道路の両側がストラスブール大学の敷地になっている

欧州議会(正面奥の建物)[使用許諾取得画像]
旧市街から北東方向に2kmほどのところにある。写真の水面は、左右の方向がイル川であり、左から、分かりにくいが写真右側の橋の下を通って右方向へと流れていく。縦方向の水面は運河である。ライン川は撮影者の背後方向2kmほどのところを、やはり左から右へと流れている。イル川の水は右方向に流れてもやがてライン川に合流するが、運河を手前にたどるとライン川への近道になる。イル川の遊覧船は左方向の旧市街から下ってきて、この地点でUターンして左の方向へと戻る。

ノートルダム大聖堂美術館 Musée de l’Oeuvre Notre-Dame の展示

ストラスブール美術館 Musée des Beaux-Arts de Strasbourg
ジョット Giotto Di Bondone (1267頃 – 1337) 『磔刑 Crucifixion』(1319-1320頃、板絵、45 x 33 cm)

ハンス・メムリンク Hans Memling (1435頃-1494) 『地上のはかなさと天上のあがないの多面教訓画 Polyptyque de la Vanité terrestre et de la Rédemption céleste』(1485頃、板絵、6 枚、各 20 x 13 cm, 小型の絵を接近して撮影)(反対面の絵はこちら

(2017年12月)