先史遺跡から考えるフランス人の文明観--クルティウス著『フランス文化論』をめぐって(2)

 

フランスは古代の文化概念の継承者である--ドイツのロマンス語文学研究者であり文芸批評家でもあったクルティウス (Ernst Robert Curtius, 1886-1956)  は、その名著『フランス文化論 Die Französische Kurtur 』(1930) を、このような印象的な主張を展開することから始めています。このWeb ページでは写真によってクルティウスの記述をたどります。

・以下の文章は、筆者が2016年9月に現地を訪れて見聞し、2017年5月の文章公開時までに確認した内容に基づいています。その後に生じたかもしれない諸事情の変化は反映されておりません。ご了承ください。
・引用中の太字による強調、地の文の中のアンダーラインによる強調は、ともに筆者 [飯野] によります。
・引用箇所でフランス語を併記した箇所がありますが、これは原著のフランス語訳で使われている単語です。
・以下の文章や写真説明には、このページ末尾の参考文献欄に挙げた文献や、Wikipedia の仏英日の各国語版を参考にしました。
・以下の写真はすべてクリックすると拡大できます。
・同じくクルティウスの『フランス文化論』の一節を跡づけた「ペール・ラシェーズ墓地等写真探訪--クルティウス著『フランス文化論』をめぐって(1)」「続 ペール・ラシェーズ墓地等写真探訪--クルティウス著『フランス文化論』をめぐって(1-2)」も公開していますのでぜひご覧下さい。

このページ上部の写真: フランス・ブルターニュ地方カルナックの列石

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クルティウスは『フランス文化論』第一章「フランスの文明観念」の冒頭で、概略次のような意味のことを述べています。

.ドイツとフランスでは価値判断の方法が異なっている。この相違は一切の文化領域に及び、また文化の本質そのももの見方にまで及ぶ。両者の見解の相違は、〔第一次〕大戦中、ついに文化 culture と文明 civilisation の対立とまでなった。
.ドイツ古典派のヴィルヘルム・フォン・フンボルト Wilhelm von Humboldt〔1767-1835〕は、文明と文化について次にように語った。「諸国民がその外的施設において、またこれに関連した内的意識において、一層人間的になること、これが文明である。この社会状態の改良に科学と芸術を加味したもの、これが文化である」と。文明とは人間が社会的になり教化されることだが、さらに高い所に、全く自主独立の創造的精神の王国が屹立し、これのみが文化の名に値する、というのだ。次いで、ニーチェ Nietzsche〔1844-1900〕によれば、文明とは群蓄的人間の理想であり、最も自由にして最も大胆なる人間の支配する所、これが文化の最盛期である。
.ドイツでもフランスでも、文化と文明という二つの概念は、対立の位置に置かれたが、ドイツ人は文化を文明の上に置き、フランス人文明を文化より高く評価する。
.フランス人にとって「文明」という言葉は、フランス国民観念の守護神であるとともに、また全人類的連帯性の保証でもある。この言葉を理解しないフランス人はひとりもない。この言葉は大衆の心を燃え立たせ、また神聖な性質を付与されて、宗教的の域にまで高められる。この点を会得するには、フランスに保存されている人類史の揺籃期の痕跡にまで遡る必要がある。
(E.R.クゥルツィウス『フランス文化論』、大野俊一訳、みすず書房、1989年〔現在は絶版〕、6 – 7頁)(太字による強調は筆者によります。以下の引用部分も同じです。)

ここからクルティウスはフランスのカルナック地方やペリゴール地方へと論を進めます。まずカルナックです。引用しましょう。

 「フランスの地には、あたかも永遠性の神秘に取り巻かれたような地域がいくつもある。例えばブルターニュ Bretagne のカルナック Carnac の荒野である。ここには太古以来のままのメンヒル menhirs の巨大な石塊が地中から聳立 (しょうりつ) して、その並木のごとく列立する様は、数と法則とが初めて人類の意識にのぼったことを示唆するもののようである。」(同書 7頁〔これ以降の引用の訳文は部分的に変更した場合があります。〕)

それではクルティウスに導かれて、カルナックを訪れてみましょう。カルナックにある先史時代 (新石器時代) の列石群は有名で、列石の数は全体で 3,000 近くになるようです。なお、現時点では世界遺産には登録されていません (暫定リストには登録されているとのことです)。また、写真は私が2016年9月に訪れた際に撮影したものです。

Google Map 日本語版のカルナックの地図はこちら。対応する航空写真で、ル・メネック Le Ménec, ケルマリオ Kermario, ケルレスカン Kerlescan といった地区を拡大させれば列石を確認することもできる。また、ル・メネック地区、ケルマリオ地区、ケルレスカン地区と南西から北東方向へとベルト状に延びる列石群の全体を確認することもできる。さらには、ストリートビューをうまく使えば実際に列石を見て回っている気持ちになれる。各自試してみてほしい。
Wikipedia 日本語版のカルナックの項はこちら

カルナックの町の中心部。
町の人口は 4,000 人台。海(大西洋)にも近い(写真)。

聖コルネリ教会 Église Saint-Cornély de Carnac.
ブルターニュの伝統の意匠があしらわれていることが強い印象を残す。

カルナックの列石は主として三つの集まりに分かれる。一つの集まりは幅 100m ほど、長さ 1km ほどである。南西から北東へ全体としてはベルト状に延びている。写真は南西側のル・メネック地区の列石の一部。この地区の列石の石は比較的小ぶりである。列石の間まで入っていくことはできない。

上と同じル・メネック地区だが、こちらはかなり大きな石が並んでいる。

こちらはケルマリオ地区の列石。ル・メネック地区の北東に位置する。
こちらの石は、脇を歩く人物との対比からも、巨石と言いうる大きさだと分かる。こうした直立した巨石は、クルティウスが言うようにメンヒル menhir と呼ばれる(フランス語では [メニール] と発音する)。

同じくケルマリオ地区の列石。

同じくケルマリオ地区の列石。
手前の道路脇にはテーブル状に組まれた石であるドルメン Dolmen が見える。

続けてクルティウスはペリゴール地方について語ります。

 「しかし、ペリゴール Périgord の草地と丘陵地帯が旅行者に与える印象は、それ以上に強烈なものかもしれない。ここ、ヴェゼール川 la Vézère のうねり流れる美しい谷間には、先史時代の世にもみごとな遺跡が集まっている。どの灰色の崖にも真っ暗な洞窟が口をあけていて、その曲がりくねった廊下に沿って行けば、十九世紀の探査で発掘されたところの、旧石器時代の不思議な動物画にたどり着く。」(同書 7 – 8頁)

実は、「動物画」とは、ヴェゼール川沿いのレゼジー Les Eyziesの村* のフォン・ドゥ・ゴーム洞窟 Grotte de Font-de-Gaume などのそれであることが先を読むと分かります。このヴェゼール川沿いの、フォン・ドゥ・ゴーム洞窟などの洞窟遺跡や岩陰遺跡を多く含む一帯は、現在は「ヴェゼール渓谷の先史的景観と装飾洞窟群」として世界文化遺産に登録されています (Wikipedia日本語版)。そこには、レゼジーからヴェゼール川を 20km ほど遡ったところにある著名なラスコー洞窟も含まれます。ただし、ラスコー洞窟の発見は1940年であるため、『フランス文化論』執筆時のクルティウスはその存在を知らなかったことになります。

* レゼジーは考古学の中心地として有名ですが、人口は1,000人に満たず、フランス語の文献でも village [村、村落] と呼ばれることがあります。この記事でも村落の意味で「村」と呼びます。ただし、現代のフランスには、行政組織として日本のような市町村の区別はありません。

この世界遺産登録範囲の遺跡はクロマニョン人 (後期旧石器時代) のものが主となりますが、そこに混じってネアンデルタール人 (中期旧石器時代) の遺跡もあり、場合によっては一つの遺跡にネアンデルタール人とクロマニョン人の痕跡が認められる場合もあるようです (ラ・フェラシー La Ferrassie 岩陰遺跡[世界遺産未登録]、文献4, p.17, 参考文献についてはこのページ末尾を参照)。ところで、ネアンデルタールはドイツ西部デュッセルドルフ近郊の地名で、1856年にこの地でこの旧人の骨が最初に発見されたことから種の名ともなりました。ネアンデルタール人より以前の旧人であるハイデルベルク人 (前期旧石器時代) の骨も、同じドイツのハイデルベルク近郊で、1907年に最初に発見されています。このように先史時代の痕跡はフランスに限らずヨーロッパに広く認められ、石器類も出土しています。ところが、道具の使用を超えた芸術的要素、狭義の文化的要素はクロマニョン人以前には認められないようです。そして、この芸術的要素の代表的な例である洞窟壁画は、この世界遺産を含むフランス南西部に最も高密度で存在し、そこから、ほぼ現在のフランス、スペイン、イタリアの地域に密度を減らしながら分布しています (文献4, p.91)。ちなみに、有名なスペインのアルタミラ遺跡もフランス南西部に隣接する位置にあります。そして、こうした洞窟壁画は、現在のドイツの地域では発見されていません。また、巨石文化 (新石器時代) については、ヨーロッパの大西洋沿岸地域に多く分布するようです。イギリスのストーンヘンジも有名ですが、フランスにはカルナック以外の地方にも巨石遺跡が点在するようです。このように考えれば、フランスが「永遠性の神秘に取り巻かれたような地域」をかかえている、とクルティウスが考えたことは科学的事実とも合致していると言うことができます。

それでは、クルティウスの記述をたどってフォン・ドゥ・ゴーム洞窟を訪れてみましょう。以下の洞窟や村の写真は2016年9月に私が訪れた際に撮影したものです。

Google Map 日本語版でぺリゴール地方に相当する地図はこちら〔実際はぺリゴール地方にほぼ一致する現在のドルドーニュ県の地図〕。
Wikipedia 日本語版のペリゴールの項はこちら

Google Map 日本語版のレゼジー〔・ドゥ・タヤック・シルイユ〕Les Eyzies-de-Tayac-Sireuil の地図はこちら。対応する航空写真も参考になる。
地図の右下部分にフォン・ドゥ・ゴーム洞窟 Grotte de Font-de-Gaume [ただし厳密には案内所の位置] を確認できる。
また、ストリートビューをうまく使えば実際に洞窟のそばまで行った気持ちになれる。各自試してみてほしい。
Wikipedia 英語版のレゼジーの項はこちら。同じくフォン・ドゥ・ゴームの項はこちら

「ヴェゼール川のうねり流れる美しい谷間」。
後出の国立先史博物館 Musée national de préhistoire から南東方向にレゼジーの村の中心部を眺めたところ。写真の右側、上から2/5くらいのところにヴェゼール川の流れが見える (写真をクリックして拡大すると分かりやすい)。川幅は十数メートルほどのようだ。写真で車が走っている道を左上の方向(東)にしばらく歩くとフォン・ドゥ・ゴームの洞窟に至る。

現在のレゼジーの村の場所の氷河期(左)と温暖期(右)の想像図(文献 3, p.59 より)。
南から北への眺め。図の奥(北)から左方向(西)への流れがヴェゼール川。右(東)からバーヌ川la Beune (現在の川の写真はこちら)が合流する。図の中央やや左で湾曲する岩壁の下のあたりが現在の村の中心部で、国立先史博物館がある。フォン・ドゥ・ゴーム洞窟は図の右(東)方向、バーヌ川の手前側(南側)にある。洞窟自体の実際の位置がわかる現在の付近の地形図はこちら(Wikimedia より)。

「どの灰色の崖にも真っ暗な洞窟が口をあけている」。
写真の崖はレゼジーの村の中心から 東方のフォン・ドゥ・ゴームの洞窟に向かう途中の左手(北側)に見える。写真では見えないが、崖下には細いバーヌ川(写真) が流れている。崖にいくつも洞窟らしいものが見えるが、詳しいことは不明。

レゼジーの村から東のフォン・ドゥ・ゴーム方面へと歩いて向かう途中の写真。
バーヌ川はこの道の北側(左側)を流れる。道の奥に見える建物が洞窟見学のための案内所。右の崖は、写真では分かりにくいが、バーヌ川(左側)に面する北面と手前向きの西面の角の部分。その手前向きの西面を南(右)方向に入った、崖の中ほどにフォン・ドゥ・ゴーム洞窟がある。 上掲の付近の地形図を参照のこと。

フォン・ドゥ・ゴームの洞窟の案内パネル。
パネルの背後の建物でチケットの他、関係書籍などを販売している。洞窟に行くには、建物から屋外階段でフェンスの向こう側に出て、右手方向(南方向)に木立の中の坂を登っていく。

上でふれた崖の角の部分。
左側はバーヌ川に面する北向きの面。右側は西向きの面。この西向きの面の奥の方向に、崖沿いの坂道を上った崖の中ほどにフォン・ドゥ・ゴームの洞窟はある。

上でふれた西向きの崖の中ほどにあるフォン・ドゥ・ゴームの洞窟の入り口。
現在は階段やフェンスが整備されている。この写真は洞窟手前の待機スペースから撮ったもの。

右の穴がフォン・ドゥ・ゴームの洞窟(左の穴はすぐ行き止まりになる)。
現在でも洞窟画の実物を見ることができる。現在は洞窟の入り口には鉄の扉がしつらえられ、日が差し込まないようにされている。一日の入場者数は制限され、午前中の決められた時刻に 1 グループずつ交互に中に入る。 1 グループは大体十数人になる。岩壁を背にしている男性がこのグループのガイド。

洞窟の見取り図

洞窟内に描かれたすべての絵の概略図

洞窟内に絵が描かれている状況(文献 3, p.46-47、このページの末尾を参照)。
洞窟の中は真っ暗闇だ。一般の見学の場合、見学者が洞窟内を進むのに合わせて、付近を順に短時間ずつ点灯する。点灯しても、この解説書の写真よりずっと暗い状態で絵を見ることになる。

参考: La Grotte de Font de Gaume フォン・ドゥ・ゴームの洞窟のヴァーチャル訪問ができる。

クルティウスは続けます。

レ・ゼジー Les Eyzies 村にあるあの先史時代の洞窟は、訪問者の視線を何千年の昔に振り返らせる。畏敬の戦慄を覚えつつ彼は過去と未来の量りがたき悠久を想う。華麗なパリや永遠のローマがとうの昔地中に埋没し去った後までも、あのメンヒルやこの崖は依然として残っていることであろう。人間は滅びても自然は残る。それにしても悠久幾万年の地球史の一小道程に人間の手と人間の精神が書き残した痕跡は、限りなく偉大に限りなく崇高に思われるではないか! 今わが手に握るこの磨かれた石は、我ら人類のプロメテウス的運命の目撃者である。この石斧、このトナカイの浮き彫り image gravée〔彫られた像〕 を作った力は、ナイル河畔のピラミッドや、パルテノン神殿の絵模様(フリーズ)や、さてはまたゴチックの大伽藍や、ヴェストファーレン製鋼所の溶鉱炉を打ち立てた力と同じものである。時と所とを問わず人間の一切の作品にあらわれているのは、同じ一つの創作力である。大自然の諸要素と闘いつつ人間の国を築いたのはこの力である。現代の機械製作者や大洋横断飛行家は、穴居人のマンモスに対する闘争を続けているのにほかならない。猟師も牧人も、農民も国家建設者も、発明家も技師も探検家も芸術家も詩人も、みんな人類の世界統治のために力を合わせて働いているのだ。この opus magnum(大事業)のために力と勇気を貸し与えた人は、すべてこれ一条の鎖の一環であり、一個の思想の僕(しもべ)である。彼らのうち青史にその名を留めたものはきわめて少ない。しかし、我々がこの〔青史に名を留めた〕人達を尊敬するとき、それは我々のために働いてくれた一切の無名の人々をも同時に尊敬しているわけである。
人類の太古史を物語っているこれらの地域に接するとき、我々の心に浮かぶのはこういう想念である。」(同書 8 – 9頁)

国立先史博物館 Musée national de préhistoire (Wikipedia フランス語版)の動物の
浮き彫りの展示。
クルティウスも「浮き彫り」と語っているが、フォン・ドゥ・ゴームでは壁面の 凹凸を利用した表現はあったが、彫刻・浮き彫りなどは見られなかった。次に名前が出る近隣のロジュリ・バスの遺跡Wikipedia より岩陰住居[abri(f.)]と見張りの穴の写真)には動物の彫刻が見られるようだが(Wikipedia 英語版)、私はこの遺跡を訪れることはできなかった。

先史時代のオオツノジカ mégacéros の生体復元模型。
角の先は博物館の天井に届かんばかりで、巨大さに圧倒される。「肩までの高さが1.8m、左右の角の重さは45kgにもなった」(文献4, p.85)。写真の右奥は通路で、その高さも大きさを判断する参考になろう。

続けて、洞窟からレゼジーの村への帰路が描写されます。

 「そして我々がフォン・ドゥ・ゴーム Font-de-Gaumeロジュリ・バス Laugerie-Basse の洞窟から出て、ふたたびレ・ゼジー村に歩を向け、この村の〔第一次世界〕大戦戦没者記念碑の前に立って、A tous ceux qui sont morts pour la civilisation.(文明のために死したすべての人々に) という碑銘を読むとき、この「文明(シヴィリザシヨン)」なる語は、それまで我々が思いもかけなかったような響きと尊厳とを持つのである。ドイツのいかなる戦没者記念碑にも、「文化(クルツーア)」なる語は見つからないであろう。わが国〔ドイツ〕の民衆はこの〔文化という〕語を理解しない。また我々はこの語をドイツ化し得ない。これは学術語であって、胸には訴えないのだ。レ・ゼジー村にあるような碑銘は、フランスでなければあり得ない。世界に国は多いけれども、「文明」という語をもって我が神聖な財宝を表現し得る国は、フランスのほかにはないのである。」(同書 9頁)

それではクルティウスに導かれて、レゼジーの村と大戦戦没者記念碑を訪れてみましょう。

Google Map 日本語版のレゼジー〔・ドゥ・タヤック・スィルイユ〕Les Eyzies de Tayac-Sireuil の村の地図はこちら
〔地図中で左上の Grotte du Grand Roc と記されているやや上(北)に、クルティウスが名前を挙げているロジュリ・バスの岩陰住居 Abri de Laugerie-Basse Wikipedia より岩陰住居[abri(f.)]と見張りの穴の写真[再掲])がある(上述のように筆者は訪れていない)。
そこから道路 D47 を南東方向にたどると、国鉄の駅、クロマニョン岩陰住居 Abri Cro-Magnon (後述)、国立先史博物館 Musée Nationale de Préhistoire (地図上でD47の脇のアイコンをポイントすると表示される)を確認できる。
博物館の入り口はD47から小道に入ったところにあるが、その分岐点に第一次世界大戦記念碑がある。
さらに地図の右方向に道をたどると、すでに見たフォン・ドゥ・ゴーム洞窟 Grotte de Font-de-Gaume がある。〕

フォン・ドゥ・ゴーム方面とレゼジーの村を結ぶ道路 [上掲写真参照] を村へと戻る。
村の中心部が近づいてきた。この地域はフォアグラやトリュフで知られる美食の地域でもある。

レゼジーの村の中心部。
フォン・ドゥ・ゴームとは反対方向を望んでいる。写真右上の、岩壁の中ほどに食い込むようにしている建造物は国立先史博物館の一部。その左側をよく見るとクロマニョン人を表現した彫刻が設置されているのが分かる。

写真の中央が第一次世界大戦戦没者記念碑。
上の写真を撮った付近からフォン・ドゥ・ゴーム方向を振り返る形で撮ったもの (この写真の左端は、上の写真の右端のカフェの一部)。この写真左側の坂を少し登ったところに、岩壁 (写真の左方向) に接するように建つ国立先史博物館 (写真[Wikipedia]) の入り口がある。

第一次世界大戦戦没者記念碑。
クルティウスのテキストだけを読んでいるうちは、もっと伝統的なスタイルのものを想像していたが、意外にもモダンなスタイルだった。

クルティウスが紹介する A tous ceux qui sont morts pour la civilisation(文明のために死したすべての人々に)という碑銘は、浮き彫りの人物の頭部から肩にかけての両側に彫られている。
〔ただし、フランスにおいても「故国のため」に死ぬという考え方は厳に存在する。たとえばスタイルも伝統的なレンヌの戦没者記念碑が参考になろう。〕

さらにクルティウスは概略次のように議論を進めます。

 〔フランスにおいてのみ、人間の貴重な力を「文明」として民衆の間で表現しえるという〕この状態に至る過程を理解するためには古代まで遡る必要がある。
古代の文化概念 idée antique de culture によれば、一切の精神的な財産は一つの価値概念の内に融合し、この総括概念は「ポリス polis 」「キヴィタス civitas 」〔ともに都市、人的集合体の意〕に結びつけられた。こうして「文明化された civilisée 」人類という観念が誕生した。人間を当初の「自然」「野蛮」の状態から引き上げ、人間を自然界の支配者たらしめる一切のものが文化である。それら一切のものは、同様の価値を有する。衣食住、学問、法律や習俗はどれも文化である点に何の違いもなかった。
こうした古代の文化概念が、ローマの精神となり、ガロ=ロマン族を経てフランスの文明概念 idée française de civilisation へと継承された。フランスは古代文化概念を現代世界において継承している。この概念がフランスの本質の根本形態の一つなのである。
(前掲書 10 – 11頁、強調はクルティウス)

クルティウスは、人間であれば誰もが持つ創造の力を評価し、文化を一部の人のものにしなかった古代ローマの態度は評価すべきであるし、その態度をフランスは受け継いでいる、と言っています。この点でフランスはローマの継承者なのです。

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参考: フランス語において、ラテン語 civitas の流れをくむ civil (市民[の]) という言葉 (名詞、形容詞) は長い歴史を持ち、civiliser という動詞 (開化する) もそれに続きますが、「文明 civilisation 」という言葉自体は18世紀になって現れる比較的新しい言葉です。また、ナポレオンがこの言葉を好んで使ったと言われています。

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クルティウスはふれていませんが、レゼジーの村は、実は、1868年にクロマニョン人 (英 Cro-Magnon ; 仏 homme de Cromagnon) の人骨が最初に発見されたことで知られる土地です。補足として、その発見の現場を訪れてみましょう。上で見たレゼジーの村の中心部から、フォン・ドゥ・ゴーム洞窟とは反対の方向、鉄道 (フランス国鉄) の駅の方向に少し行ったところがその現場です。なお、クロマニョンは元々はオック語の地名とされ、「クロ」は「窪み」を表し、「マニョン」は土地の所有者などの人名に由来すると考えられているようです(後者には、ラテン語のマグヌス〔大きい〕から由来するとする説もあるようです)。

クロマニョン人の人骨が最初に発見された場所は現在民間の施設になっている。
L’Abri Cro-Magnon とあるが、abri はふつう「避難所」の意味、ここでは岩陰住居を指し、結局「クロマニョン岩陰住居〔の跡〕」くらいの意味。建物の裏側、岩壁との間に空間が開けている。

建物の裏の岩壁の下部。
この岩陰でクロマニョン人の人骨が発見された。発見場所であることを示すプレートが岩にはめ込まれている。人骨模型の展示がされているが、あくまでも余興的なものと考えた方がよさそうだ。

上の写真と同じ場所を広く撮影。
クロマニョン人を模したと思われる人物模型の背後に人骨模型が置かれている。 人物の衣服は国立先史博物館の展示の毛皮の衣服と異なっており、正しい時代考証がなされているのか疑問。

こちらは近隣にある、35,000年前以降長期間の人類の岩陰住居遺跡であるアブリ・パトー Abri Pataud に併設されている資料展示コーナーでの、岩陰住居の模型。
左はテント形式、右は岩壁の窪みをそのまま使い風雨を避ける覆いを付けたもの。また、左に比べて右は崖下の堆積が進んだ状態を示している。
写真をクリックして拡大し、やや見にくいが模型の上の想像図も見てほしい。

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さて、これでレゼジーの村を離れます。最後にこの村の鉄道の駅を紹介しておきましょう。駅はレゼジーの村の北西にあります。(この駅からフォン・ドゥ・ゴーム洞窟へ行くには、村の中心部を通り抜けてかなり歩かなくてはなりません。この村にはタクシーのサービスも、レンタカーの会社もありません。)

これが駅舎。Gare des Eyzies とある(もともと定冠詞である村名のレ Les の部分は前置詞 de と合体して des に変化している)。

プラットフォーム。複線になっているのは駅だからで、通じているのは単線鉄道。

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参考文献:
1. E.R.クゥルツィウス『フランス文化論』、大野俊一訳、みすず書房、1989年〔現在は絶版〕
2. E.-R. Curtius – Essai sur la France, traduit de l’allemand par J. Benoist-Méchin, Grasset, 1932 (nouvelle édition, éditions de l’Aube, 1990, 1995) (仏訳)
3. Jean-Jacques Cleyet-Merie – La Grotte de Font-de-Gaume, Éditions du Patrimoine, 2014.  ISBN: 978-2-7577-0371-7
4.『世界遺産 ラスコー展』(図録)、毎日新聞社・TBSテレビ、2016年

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(付記)
私は大分前から、18世紀の感覚論関係の図書の調査のため、フランスの大学図書館など専門書を収蔵する図書館を回っています。2016年9月にはフランスの南西部のペリグー Périgueux 、西部のナント Nantes などの都市を訪れました。旅行中、私は週末などを利用して、ペリグーから鉄道で40分ほどのレゼジー Les Eyzies を訪れ、ナントから 1 時間ちょっとレンタカー*を運転してカルナック Carnac を訪れました。このページで公開する写真はその際に撮影したものです。
(次の地図では、Nantes の北西の赤枠が Carnac の位置、Périgueux の南東の赤枠が Les Eyzies の位置を示します。)

Base Map by World Sites Atlas (sitesatlas.com)

* 旅行でフランスを訪れる日本人がレンタカーを利用するのはなかなかハードルが高いですのでご注意下さい。自動車交通をめぐるフランスの事情(何も言わなければレンタカーではマニュアル車が準備される、等々)を理解していることや、その場で交渉や情報収集ができる英語かフランス語の一定の語学力などが求められるでしょう。

(2017年5月1日)